落ちたのは底無し恋



いつからか嗅ぎ慣れてしまったその煙草と香水の香り。最初は少し苦手だとすら思っていたのに、今ではこの香りを鼻に掠めるだけで体も脳も無意識的にあなたの姿を探すようになっていた。かっちりと着込んだスーツ姿も、少し人を威圧するような雰囲気も、声も、仕草も、全部全部、一つ残らずずっとずっと私だけの物であってほしいと思うほどに。






「おはようございます、大寿さん」
「あぁ」

柴大寿。私が勤めるレストランのオーナー。都心のお洒落な雰囲気のレストランのオープニングスタッフの募集を見つけた時、前職を辞めたばかりの私はすぐさま飛びついた。オープニングからならウザったいお局的な人もいないだろうし、みんな初めてだから和気藹々とやれると思ったし、何より店の外装内装メニュー雰囲気全てがお洒落だったから。面接してくれたマネージャーも優しく気さくな人だったから、採用の連絡が来た時は飛び跳ねて喜んだ。…が、

「オーナーの柴大寿だ。今日からよろしく頼むぞ」

怪物かよってくらいガタイのいい男が登場した初出勤日、私の体は硬直した。

いや…いかつすぎない?てか怖いんだけど…、なに?この人格闘技の選手とかだったの?体つきだけじゃなくて顔つきも怖くない?目で殺されそう…。しかも首元、思いっきりタトゥー見えてるんですが…。

他のスタッフとは予想通り和気藹々とした雰囲気で過ごせていた。ただオーナーの大寿さんがそこに現れると…なんというか、場の空気が凍る。

「おい」
「はっはい!?」
「ワインのサーブの仕方、もう少しなんとかなんねぇのか」

オープン前日に接客の練習をスタッフ同士でしていた時、大寿さんにそう声をかけられ私の背筋は凍った。申し訳ありません、と謝れば「謝ってる暇あったら練習しろ」と言われ私のか弱い心はグサリと傷を負った。マネージャーに慰められながらワインの注ぎ方を見てもらったが、自分の視界がじんわり滲んでいたのは、気のせいだと思いたい。






「…何してる」

閉店後の人気のない店内にいる時に声をかけられ、私の肩は飛び跳ねた。恐る恐る声のした方向へ目を向けるといつものようにカチッとスーツを着込んだ大寿さんが立っている。

「あ、あの…」
「ワインか」
「…はい。なかなか上達しなくて…」

お店がオープンして数日経ったが、未だに私のワインのサーブの仕方はぎこちなかった。今日なんて危うくお客様に溢しかけてしまいあの気優しいマネージャーに怒られてしまった。その上オープンしたてでお客様がひっきりなしに来るもんだから、練習する時間もとれていなかった。

「やってみろ」
「え?」
「オレが見てやる」

大寿さんはネクタイを緩めながらこっちに近づいてきた。この人に練習を見てもらうほど私のハートは強くないんだけど…でもだからって「いいです」と断る強さもない。確実にリラックスできていない状態な上、手も震えてきたが仕方なしにワインボトルに手を伸ばす。

「…あっ」

案の定溢しかけたが、大寿さんがすんでのところでボトルを掴んでくれた。

「手見せてみろ」
「え?はい…」
「あぁ、やっぱりな。手が小せえんだな」

そう言ってなんともない表情で突然私の手を掴んで来たから心臓が飛び出そうになった。大寿さんの手は大きくて硬くて…男女の差を強く感じさせる手だった。男の人に触れられたのが初めてなわけではない。けど…このまで男らしい手に触れられたのは、初めてだった。

大寿さんはそのまま私の背後に立ちその大きな手でワインボトルを掴む。その時私の鼻を掠めたのは、初めて嗅ぐ煙草と香水の混じった匂い。あ、この香り、嫌いじゃないなと直感的に思った。

「まぁオレの手のデカさだったら余裕なんだけどな」
「私ももう少し手が大きかったら良かったんですが…」
「だったら両手使えばいいだろ」
「え?いいんですか?でもみんな片手でやってますよね?」
「両手がいけねぇわけじゃない。片手の方がスマートに見えるからソムリエ達がこぞってやってるだけだ。お前は両手でやればいい」

そう言われ、私は恐る恐る両手でワインボトルを掴みグラスに注ぎ、ねじるように注ぎ切った。そしてその直後に大寿さんの顔を見上げると「できるじゃねぇか」と片側の口角を上げて笑ってくれたから、安心したのか私の頬も思わず緩んだ。

「両手でいいなら最初から言ってほしかったです…」
「なんだ、誰も教えてくんなかったのか?マネージャーとか」
「はい」
「気が利かねえ奴だな」

そう言われるとどう反応していいか分からず、私の目は泳いでしまった。しかし大寿さんは私のそんな表情に気づくこともなく、こっちに背中を向けドアの方に足を進めていく。あ…お礼、言いそびれちゃった。そんな後悔を胸に残しながら使ったワイングラスを片付けた。



「終わったか」

片付けと着替えを終え従業員用出口から出ると、大寿さんが煙草を吸いながら立っていた。「…どうして?」と聞けば「施錠のためだ」と言われ、申し訳ないことをしてしまったなと心が焦る。

「大寿さん、先程はありがとうございました」
「なんもしてねぇだろ」
「そんなことありません。それに施錠があるのにすっかり待たせてしまってすみませんでした。それではまた明日。お疲れ様でした」

ペコリと頭を下げるが、大寿さんからの返答はなかった。まぁ…元々口数多い人ではないしなと思いながら駅の方へ歩こうとすると「乗っていけ」と低い声が私の耳に響いた。

「…え?」
「終電あるのか」
「あ、ないです…だから駅前でタクシー捕まえようかと」
「乗れ」

そう言って彼は助手席の戸を開けた。左ハンドルの誰でも知っているような高級外車。いつも駐車場にあるなとは思っていたけど、大寿さんの車だったのか。どうしよう…一従業員の私がオーナーに送ってもらうなんて事があっていいのだろうか。それに深夜だし男性の車に軽々と乗っていいものだろうか。いやでも大寿さんだし…、と悶々と考えていたが、痺れを切らしたのか彼は私の腕を引っ張りもう一度「乗れ」と言ったので従うしかなかった。

カーナビに自宅の住所をセットしてから走り出す高級車。知らない洋楽とさっきも嗅いだ煙草と香水の匂い。座り心地のいいレザーのシート。大寿さんのきれいな横顔。全てが非日常感で溢れていた。

「さっき何を躊躇っていた」
「え?」
「上司に送られるのに申し訳なさを感じたか?」
「……」
「それとも、オレが送り狼になるとでも?」

ちょうど赤信号になったため、大寿さんは視線を助手席側に向けてきた。鼻の奥を擽るその香りと、目を離せなくさせるその表情に飲み込まれそうになる。だからだろうか、私の頬をそっと撫でる彼の指を振り払うことができなかった。

「…冗談だ」

フッと笑い、また前を向きアクセルを踏んだ。そんな大寿さんにほっとした自分と少し残念に思った自分がいる。私は何を期待していたんだろうこの人に。まだ出会ってそう月日も経っていない上司に、一体どうされたかったんだと言うのだ。初めて見た時から怖い怖いとビビっていた相手なのに。ちょっと優しくされたから?彼の大きくて男らしい手を知ってしまったから?それとも大寿さんの運転する車に乗っているというこの非日常感が私をおかしくしているの?

そうだ、きっとそうに違いない。


「大寿さん」
「なんだ」
「冗談じゃないって言ったらどうしますか?」
「…冗談じゃなくするだけだな」

横目で私を見てきた彼の目と視線が絡んだ。それと同時に押されるカーナビの案内中止ボタン。これから私は更なる非日常へ向かって行くのだと思うと体がゾクゾクした。けどこの時の私はまだ知る由もなかった。少しだけ持った非日常への興味が自分を底なし沼に突き落とすなんて。柴大寿という男が、これほど自分の心を掻き乱す存在になるなんて。

「言っておくが、他の従業員にもこんなことしてるわけじゃねぇからか」
「ほんとですか。嬉しいです」
「上手いこと言う口だな」

ニヤリと笑うその顔に、私の心臓は波打った。今一度ハンドルを握り直したその手に、早く触れてほしいと願いながら。








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